昔、結婚しそうになった話

ごりちゃんには関係ないけれども、私の昔話。

小説ねたにしようと思って、若干書いたのだけれども、うまくまとめられなくて、困っている。

就職して3年目に入るころ、結婚しそうになったことがある。

母親同士が女学校の同窓生で、一年違い。
遠い親戚にも当たるらしい。
かなり変わった経歴の人で、どんな人なのか、興味を持たざるを得なかった。その人、★さんは、3歳年上で、名門男子校を中退し、高校は卒業していないけれども、大検を受けて、まず某大学医学部に入ったけれども、中退。某大学英文科を卒業し、外国関係の仕事専門の部署にいる。

私は、幼稚園まで母の実家にいて、小学校に上がるとき、こちらに引っ越したので、田舎の事情はよく知らない。母の実家は金持ちだったらしいが、★さんの母の実家はさらに金持ちだったらしい。

同じ建物にいるらしいから、一度会ってみたら、と、紹介されて、会った。
まず驚いたのは、美青年だということ。
そして、話題になったのは、お互いの母親の話。

「うちの母は、田舎にいるとき、乳母日傘だったんですよ」
「うちの母も、かなりお嬢様育ちで・・・本当に困るんですよ」

★さんの外国出張の話や、仕事の話を聞くのが、面白かった。
うらやましくて、私も、そんな仕事がしたいと、思った。英語の勉強を始めたのは、★さんのような仕事がしたかったからというのも一つの理由だった。

★さんの母は、駆け落ちして結婚したという情熱的な人だった。★さんの母の実家は、造り酒屋だったそうだ。
叔父さん(つまり★さんの弟か兄)は、(おそらく昭和40年代)遺産相続で、相続税を20億円も払ったそうだ。

★さんのお母さんももらっているはずだった。
おそらく、相続で得たお金で家も建てたのだろうと思われる、すばらしい家だった。

結婚しようということになって、母と一緒に、★さんの家を訪問した。
ご両親と、結婚した妹さんが迎えてくれた。少女趣味の美しい大きな家、ぴかぴかのロココ風とも云うべきおしゃれな家具、飾り棚には、美しい食器がきれいに並べられていた。

昭和40年代に遺産相続したときの20億円というのは、今の貨幣価値に直すと、10倍くらいにあたるのだろうか。
そうすると、200億円の相続税か?

田舎の事情は、まったくわからないので、それくらいしか、私にはわからないが、田舎の親戚だと、ああ、あそこの家の人、とわかるらしい。

★さん自体は、なかなかいないと思われるような美青年。
俳優にたとえて言うと、市川染五郎の若いころの顔を、もっと上品にしたような顔。
私が思ったのは、みせびらかしたい男性だった。
私にもこんな彼氏ができたと、自慢したいと思うような男性。

彼が私の職場まで来て、週に何回か、一緒に食事に行った。

結婚しようという話になり、結婚費用を、彼は自分一人で合計していた。
突然、彼は、
「結婚するには、300万円くらい必要だ。新居や、結婚式、新婚旅行などに、○○万円かかって・・・・・・」と言いだした。

そんなお金なんか、ありません!!

私はまだ、手取り10万円くらいだったから、そんな大金など無理。

また、「僕は漬物はだめだからね」と、宣言されたのもちょっと唖然というか、そんなことまだ考えてないよって感じ。

たった1ヶ月のつきあいだったけれども、ある障害のために、結婚できそうもない状況になった。
さらに、妹に紹介された占い師が、
「あなたは、四柱推命で占った結果、あなたは、奪われる運命で、彼は奪う運命。この結婚は、かもがねぎをしょっているようなものだから、やめなさい」と宣告した。この占い師は、真光の信者で、手かざしをされて、ミキプルーンを売りつけられた。
私の気持ちとしては、見栄で結婚したい相手であったけれども、彼の気持ちの中には、なかなか入れない部分があって、不安だった。
彼の育ち方にも原因があったと思う。
短い付き合いだったけれども、あっと驚く事情があるらしいことがわかってしまった。

その経過というか、詳細は、小説のねたにしたいと思うので、ここでは、詳しく書かないけれども。

おまけに、現在、★さんは生きているわけで、ばらしていいものかどうか、心配だけれども。

しかし、これほどの相手は、なかなかいない、というか、他にはいないだろうと思われた。惜しいとは思ったけれども、あきらめることにした。

夫の最初の発作

夫が、最初の発作を起こしたのは、確か2000年の11月だったと思う。

夜、いつものように、お酒を飲んで、下品な悪口を言い始めた。
聞いているのも、嫌な悪口を並べて怒り始める。

毎日毎晩、これだから、本当に、離婚したいと思うが、お酒が抜けると、別人のようになる。

一見まじめで、おとなしい人が、一杯のビールを飲み干すと、目つきがすわり別人のようになる。
ジキルとハイド氏みたいだと思っていた。

フランスに一時行っていたことがあって、そのときは、子供と一緒に、
のんびりすごせた。
たった半年ぐらいだったが。

その発作は、一瞬何が起こったかわからなかった。
顔の形相が、怒りの表情というだけではなかった。
目が異様につりあがり、口はよだれをたらしながら、ぎりぎりと食いしばり、顔じゅうしわだらけにしながら、声も出ず、手足も突っ張り、まるで地獄の苦しみを味わっているようだった。
息はとまっていた。
呼吸しようにも、できないようだった。
何分続いただろうか。
何とかしなくちゃと思っても、私は、悲鳴をあげるしかできなかった。

親なのになさけないと思うがそれほど恐ろしかった。
このまま死ぬのかと思った。
きっと、その状態がずっと続いていれば、死んだのかもしれない。
ある小説家の悲惨な小説の一部に、そんな発作で、死ぬ話が書かれている。

長女が、救急車を呼んでくれた。

救急車の人が、来てくれた。
10分か、そこらだったと思う。
しかし、夫は、うそのように眠ってしまっている。

起こすと、さっきのことはまったく覚えていないので、病院なんか行かないと言う。

子供たちが、泣きながら、頼んだ。
私の言うことは聞かないが、子供の言うことは聞く夫だ。

病院に着き、いろいろ検査をした。
脳梗塞を起こした痕跡があるという。
発作だと思えるような発作は起こしていなかった。
しかし、考えてみると、三年くらい前、つまり、1997年ころ、変だと思ったことがある。
顔が、左右対称ではなく、ひょっとこのような顔をして、ご飯をぼろぼろこぼす。

「どうしたの、けんかでもして、殴られたの」と聞いた。
答えなかったが、考えてみると、おかしかった。

次の日も専門外来に来てくださいと言われた。

結局、「アルコールをきっかけとして、脳梗塞を起こした場所が、てんかん発作を起こしたのでしょう」と言われた。

私も、子供達も、本当にショックを受けた。
子供たちのほうが、私よりも、もっとひどいショックを受けたかもしれないと、考えてあげるゆとりもなかった。

その後、虎ノ門病院に行ったら、「アルコールをやめない限り、命の保障はしない」と言われた。
しかし、夫は、その場では、はいはいと、従順な態度をしながら、家に帰ってから、「久里浜病院へ行こう」という私に、「アルコールをやめるくらいなら、死んだほうがいい」と言った。

私も、あきれ果てた。

その後、いろいろ事情があって、私がお金をすべて管理するようになると、お金をできるだけ渡さないようにしなければならなかった。

少しでも渡すと、お酒を買うからだ。

お金を渡さないと、家にある私の本や、置時計、ノリタケのティーセットなどを、質屋とか、古本屋へ持っていって、お金を手に入れた。

私は、大事なものは、買い戻しに行った。
その後は、自分の部屋に、鍵をかけて、しまっておき、いっぱいになると、娘の部屋に寝るようになった。

越後湯沢に、マンションを買ったのも、大事な本を置く場所を作るためだった。
やっと自分の部屋で寝られるようになった。

棺おけに片足突っ込んでいる夫

夫は、都内の有名病院に通院している。

19年位前に、ここの内科に、糖尿病の教育入院をしたことがある。

三年くらい前に、脳梗塞で半身麻痺になったとき、入院した地元の病院では、糖尿病については、わからないというか、的外れの診断をしていた。

なんとれっきとした糖尿病の夫を、検査結果もそのように示しているのに、脳梗塞の治療をしてくださったお医者さんが、「糖尿病の気がある」、とか、「境界域糖尿病」だとか、おっしゃたわけである。

歩けるようにしてもらったので、文句を言うわけではないが、糖尿病については、心もとなく思うわけで、そういうわけで、もともとかかっていた糖尿病の経過もわかるわけなので、都内の病院に行くことにした。

それで、都内の某有名病院に行った。
私の職場から近いこともあり、内科に通いながら、神経内科を紹介してもらい、受診することになった。

前に見てもらったとき、ここの神経内科の先生は、
「久里浜病院に行って、アルコール中毒を治してからでなければ、私は診ない」といわれて、私も手伝って、断酒するように命令された。
しかし、夫は、久里浜病院に行くわけもなく、断酒会にも参加しない。
私は、仕事を休んでアル中の家族会に行くわけにも行かず、そのままになっていた。

そして、脳梗塞になったわけである。

酒をやめなければ、命の保障はしないといわれながら、酒をやめるくらいなら、死ぬという夫。

私も、あきれて、酒代を渡さないようにするくらいしかできなかった。
すると、家の品物や本を売りに行って、お金を得て、酒を買う。

結婚祝いにもらった高価な時計や、ノリタケのティーセットを買い戻しに行く羽目にもなったし、本も、売った先がわかると、買い戻しに行った。

その後は、大事なものは私の部屋に鍵をかけてしまっておくようにした。

そういうわけなのだが、脳梗塞になって、再び都内の有名病院に行った。

私が途中から、神経内科の診察室に入ると、夫は、先生と、話をしていたが、私が、
「昨年脳梗塞で、入院しまして」と話すと、先生は、
「その話、しなかったよね」と、言う。

夫は、都合の悪いことは何も言わず、適当にしゃべっていたらしい。

「奥さんからちゃんと聞かないとわからないですね」と先生が言うので、私は昨年からの経過などを話した。

「脳梗塞で2週間入院した後も、立てなくなっていて、救急車を呼んだら、救急車の人も病院へ行ったほうがいいですよといったんですけど、明日までいいよといって、行こうとしなかったんです。でも次の朝になったら歩けるようになっていました。もう、棺おけに片足突っ込んでいますよね」
と私が言うと、先生は、大きくうなづきながら、
「うーん、それはまさに棺おけに片足突っ込んでいる状態だ・・・」
と、うなっていた。

先生に納得されてしまうのも、実に妙な気分だったが、とりあえず、今度の先生は、
「酒をやめなくても診てあげますよ。でもやめたほうがいいけど」
と言う。
酒は、百薬の長とか言うが、神経に対しては、明らかに毒なのだそうだ。

うちのごりちゃん

うちのごりちゃんは、そんなの関係ない!!
が大好きである。

昨年、しょっちゅう、やるので、なんだろうと思っていたら、はやり言葉だった。

最近は、なんとか、毎日元気で、ごみだしをしている。

ごみだしをしてくれるだけでも、だいぶ助かるので、ま、いいとしよう。。。

しかし、ときどき、立ち上がるのに、苦労しているときがある。

それを見ると、私は、
「また、お酒飲んだでしょう」
と、言う。
こっそり、飲んでいるかもしれない。

「寝たきりになったら、不潔部屋に置いとくからね」
と脅している。

あの大きな体を、私が面倒見切れるわけがない。
車椅子は、万が一のために、用意しておくほうがいいかもしれない。

とにかく、酒とたばこをやめさせる!!

車椅子をどこで買えるのだろうか、と、先日電話帳で探しまくったが、結局わからなかった。
電脳卸で調べると、たくさんあって、どれがいいのかわからないほどだ。

とりあえず、安くてよさそうなのを見つけておいた。

鬼嫁3

「悪性の細菌感染で空気が入っていないか調べるためにレントゲンをとりましたが、大丈夫でした。これから、抗生物質の点滴をします。20分ぐらいかかると思います。あす皮膚科の外来に来てください。10時に予約しておきます」

目がさめた夫は大分楽そうだった。
「帰りは救急車使えないんですよね」
看護婦さんいわく「介護タクシー調べたんですけど、今の時間はやっていないので。車椅子でタクシーまで運びますから。あとで松葉杖の歩行訓練をしましょう」
ゆっくり歩いても20分の距離に、介護タクシーで!?
介護タクシーってすごく高い。とりあえず、あわてて出てきたので手持ちのお金がほとんどないため、支払いをするのにお金を下しに行かなければならない。そのことを話して、
一番近いコンビニは、どこか聞いた。

結局二つあるコンビニのどちらも同じくらいの距離だといわれたので、自宅の前にあるコンビニに行くことにした。点滴がまだあと30分ぐらいかかるという。短い足ながらも速足で歩き出した。子供に電話したら保険証を持っているというので、それもとりに行くことにした。保険証がなかったら、大金がかかってしまうところだった。
支払いは7000円近くかかった。保険証がなかったらやばかった。夫の寝ている待機所に戻ったら、車椅子に乗せられていた。看護婦さんが、「介護タクシーのリストです」と紙を渡した。
タクシーを呼んで乗り込むまで看護婦さんが付き添ってくれた。車椅子から松葉杖を使って、タクシーに乗った。道路はすいていたので、すぐに家についた。

家はマンションだ。タクシーが止まった駐車場のスペースから家に入るには、3段の階段が2カ所ある。松葉杖をついて、車から降りた。3歩歩かないうちに転んだ。もう起き上がれない。前に半身まひになったときと違う足が腫れているようだ。本人に確認しても覚えてないと怒り出す。コンクリートの上に痛む足を打ちつけて転んだ夫はさぞかし痛いだろう。と思うが、さほど苦しんでいる様子はない。もともとすごく痛いから、なのか、痛い方の足はぶつけなかったのか、わからない。

立とうとしても立てない。はいはいしていくしかない。私が力を貸しても起き上がれそうにないし、またそれで転んだら痛そうだし、すぐ私に暴力を振るうので、はっきりいって、肩を貸すのはいやだった。

数年前、痛風のために、近くの医者に行くとき、頑張ってつれていってあげたのに、薬をもらったとたんに、いつもの悪口が始まり、怒り出した。仕事を休んで、つれていってあげたのに、そんな態度するなら、もうつれていってあげないと宣言した。
そして、その次に痛風になったとき、私は夫をほっておいた。するとお酒を飲むと痛くなるということを学習した結果、お酒を飲まなくなり、1週間で回復した。
その後、半年は酒を飲まなかった。

薬をくれた近くの整形外科は、「今回だけは薬を出しますが、内科へ行ってきちんと治療してください」と言ったっため、内科へ行くと、尿酸値をさげる薬をくれた。すると夫は安心してまた酒を飲み始めた。そして、その後脳梗塞で半身麻痺になり、その次は、この蜂か織炎である。

このままでは、無理なので、子供を電話で呼んだ。夜中の二時過ぎに起きているかなと思ったが、まだ眠っていなかった。
引っ越し用の台車を持ってきた。

「ちょうどこれがおいてあったから持ってきた」

どこの家が使ったのかわからないが、車輪を4つつけただけの板だったが、ラッキーだった。その上にのせて、動かし、階段ははってのぼり、また台車に乗せて動かし、階段をはって上り、台車に乗せて、エレベーターに乗り、家にたどり着いた。そしてはって家の中に入った。ほふく前進と本人は言ったが、はいはいにすぎない。