統一教会にひっかかりそうになった話

3回ひっかかりそうになった。
1回目は、大学の時、女子寮に朝鮮人参の押し売りが来た。

買うことにしたけれども、母に止めらて、やめた。

押し売りは、若い女性の二人組で、たぶん統一教会。

2回目は、結婚して、文京区のマンションに住んでいたとき、印鑑の押し売りが来た。
夫の先祖と私の先祖が争う関係だったため、今、夫と私がその関係を引き継いでいるという。それを解消するためには、100万円の印鑑を作りなさい、といわれた。また女性は、名前だけの印鑑を作ると言いといわれた。

100万円の印鑑は無理と断り、3万円で、夫と私の実印を作ってもらうことにした。
名前だけの印鑑の話は、離婚した後にも便利なので、その後印鑑を作るときは、すべて名前の印鑑にしている。

この高額の印鑑を作らせるというのは、統一教会の手口だそうだ。壷を購入しろというパターンもあるらしい。

3回目は、今から、約11年位前の話。

地元で呼び止められた。
手相、人相を見るという二人組みの女性。
「あなたは、すばらしい人だけれども、今大事な時期。家系図占いをしてあげる」という。
母が自宅を売って、有料老人ホームに行ってしまったため、相談相手がいなかった。それで、そばの教育文化センターというところで、おしゃべりをした。いろいろと、悩みを話して、相談に乗ってもらった。
そのころ、夫は借金を抱えていた。というのは、郵便物は、ほとんどすべて夫が先に見るから、私には、わからないまま、サラ金から駆りまくっていた。

結婚直後から預かっていた夫の通帳を返還し、自宅マンションの住宅ローンは、夫が払うことにしてから、数年たっていた。

家計を、これは夫、これは私と、振り分けて、やりくりしていた。
夫は、東京のマンションを売ったお金をたくさん持っていたが、私が預かっていた夫の給与振込み通帳は、夫が職場に借金するたびに、天引き額が増えていき、どんどん振り込み額が減った。子供に音楽教室だけは通わせたいと思っていたので、その分の費用や、食費などは、私が払っていた。
夫がお金に苦労しているのはわかっていた。

しかし、酒乱で、困っていた。
そのことを相談した。
除籍謄本を取り寄せる方法を教えてくれて、夫と私の祖父母合計8つの除籍謄本を手に入れた。

その除籍謄本によれば、私達の祖父母は、金持ちばかりだそうだ。代々、同じ名前を襲名していた商人が、私の父方の祖父母、母方の祖父、夫の父方の祖父だったと思う。だけれども、自分達で独占していたため、金の因縁がある。先祖が地獄で苦しいと助けを求めている。そのため、夫の父方の曽祖父が夫に乗り移って、家庭内がごたごた荒れる。それを解決するには、1000万円でも足りないけれども、○○万円だせ!!と、突然すごい形相になったのは、私の担当者よりも偉いとされる女性。

このとき、ビデオ代として、6万円なのだけれども、分割でいいと2万円払い、通ってビデオを見るように言われていて、何回か見ていた。

この教育文化センターでは、、夫は、因縁という雨を防ぐための傘だから、大事にしなければいけない、天という字は、二人という字が合成されてできているので、二人で一緒でなければ、天国に入れない、夫の言うことは黙って聞きなさい、というのが、そこで言われた話。

そのため、夫が、
「サラ金の借り換えを承諾しなければ、お前や子供を殺して、俺も死ぬ」、と、包丁を振り回したとき、私は、夫の言うままに、契約書に実印を押し、印鑑証明書も提出した。
その契約書は、担当者が家に来て、作った。25%の金利で、500万円を借りる契約書で、毎月確か14万円を返済するというものだった。私が連帯保証人になり、二人分の公正証書も作り、すべての関係書類もカメラで撮影し、夫の顔も撮影した。ずいぶん念入りなことをするのだなあ、と、思った。

このときの借金のおかげで、3年後、なんと二人とも給料を差し押さえられてしまう。
いずれ、払い切れなくなるのはわかっていた。統一教会にだまされていなかったら、この時点で、何とかしたと思う。
払い切れなくなる直前、しょうがなく私も何回か援助した。さらに、クレジットカードで、新幹線の回数券を買って、払い戻して現金を作ってきてくれ、と。
そんなことまでしてたんだと思ったけれども。
このときの、貸し手は、後日、裁判で過払い分の請求権が確定した後、請求しようとしたら、住所がわからない。弁護士さんが、結局在日韓国人であることを調べて、差し押さえをするぞと、連絡したら、返金したそうだ。

また、途中で、私の持っているすべての財産と、今までの男女関係をすべて書きなさい、といわれて書いた白い紙があって、それは、見ないで焼き捨てて、祈祷するといわれていた。
そこに書いた金額から、○○○万円の金額を出したのだろう。
私は、手持ちの20万円と、保険証券を差し出した。

ただで、相談に乗ってくれるはずもないわけだし。。お金を出せなんて変だぞ、と思い、調べてみたら、統一教会の手口だとわかった。

統一教会だとは一言も言わなかった。単に相談に乗ってもらっているだけだと思っていた。

旅行に行く予定だったので、旅行先から、保険会社に解約しないように電話をかけた。

帰ってきてから、統一教会でしょう、やめます、お金も保険証券も返してください、といった。
しらばっくれていたが、返してくれた。

私の担当者の女性は、娘を合同結婚式で結婚させたそうだ。

その教育文化センターには、いつも何人か人がいて、仕切られたスペースで話をしたりしていた。

話を聞いてもらって、結構楽しかったのだけれども、夫が、金策に走り回っているのに、この○○○万円(確か120万円だったと思う、そのくらいしか私も自由になるお金を持っていなかった)があったら、どれほど足しになるだろう、それなのに、こんなことに使っていいものか、と思った。借金で苦しんでいる人が、われわれの言うとおりにして、借金をチャラにしてもらえた、とか、言っていたが、信用する気にはならなかった。

統一教会の人に見るように言われていた映画があって、後日見てみた。
外国の映画だったが、地獄まで家族を探しに行く映画だった。

外国のジャーナリストが、所属する新聞社を統一教会系のメディアがのっとったため、辞任したというニュースを見たことがある。

また、ブラジルで日本人が誘拐されて、多額の身代金を要求された事件があった。この日本人は統一教会の幹部で、多額の身代金は払われたのだそうだ。

世界中で活躍しているらしい。

日本でも、山谷えり子議員などが、統一教会関係者らしい。また、ブログランキングの人権問題の1位になっているブログが、統一教会関係者らしくて、統一教会信者を監禁した家族は人権侵害だと、書いてあった。

私が、統一教会と縁を切るとき、脅し文句を言われた。しかし、死んだ人間が生きている人間に悪さをするなんて、しかも、それがお金で解決するなんて、信じられない。

すべて返してもらったので、実損は、ビデオ代の2万円だけだったけれども。

もっと大金を取られている人たちもいるらしい。

私の場合は、先祖が金持ちだという理由で、金の因縁だけだったけれども、離婚再婚、お妾さんなど、色情関係の乱れが祖先にあるときは、色の因縁とかいって、また別の話になるらしい。

全部で、3ヶ月くらい通っていたと思う。

統一教会の人によほど目をつけられやすいらしく、私は、その後も、新宿や、表参道などで、
「あなたは、すばらしい相があります。手相を見てあげます」と、何回か声をかけられた。

「あなた、統一教会の人でしょう」というと、
「違います」といって、みんな逃げていく。
若い女性もいたけれども、かわいそう。
そうやって、奉仕させられるらしい。
「青春を返せ」という訴訟をしている人もいるそうだ。

今、どれくらいひっかかっているのだろうか。

仕事が全部なくなった話についての後日談

二人目を妊娠中に、私は、TOEICの成績が730点とよかったため、親会社に当たるところの英語研修を半年間受けることになり、かなり宿題に時間をとられていた。

そのころの仕事は、Yama○氏が企画していた統計情報データベース設計に参加したり(外注先との会議に座っているだけ)、統計パッケージを使ったリスト作成(長期問題検討委員会の仕事の続きで予算用)などに加えて、今回英語研修を受けていることから、外国関係の担当をすることになっていた。

産休直前に、隣の席にいた女性が、昔からある統計システムの担当で、30歳近い年齢になって初めて、COBOLのプログラミングをする仕事を割り当てられていた。
組合関係の役員をしていた事務系職員で、隣で見ていてもかわいそうなくらい詰まっていた。上下関係も、担当も関係なかったけれども、ちょっとだけ教えてあげたりした。

そのとき、直属の上司Koji○氏から、隣の女性の仕事を一つ、私がやれと命令された。

すでに期限切れの統計リストで、フォーマットはどうでもいいから、とにかく数字がほしいという仕事だった。通常であれば、1ヶ月くらいかかる仕事だけれども、ツールをいろいろ使って、応急処置で、統計表のプリントを作成するということで、2週間でこなした。

しかし、数年後になってから、課長の隣に座っているある男性から、私の評判について、とんでもないことを聞かされた。
「プログラミングの仕事をやらせると、期限は遅れるし、リストはちょん切れているし、全然仕事ができない人間だと、言われている」

調べてみると、そのプログラムを使って統計リストを作成するのは、一回限りだったはずなのに、その後何年もずっと使われていた。

まさか、そんな話が、そんな評判ができあがっているとはまったく知らなかった。

その当時、私は、英語の翻訳をしていたが、それくらいしかできない人間だから、やらせておけ、というストーリーが出来上がっていたのだ。

どこで、誰が、そんな話を捏造したのか知らないけれども、いまさら、それはこうでした、なんて、言いたくても、誰にいえばいいのかもわからないし、私は、ただ驚くばかりで、どうすることもできなかった。

そのほかのセクハラ発言集

2年目、検索システムの担当になった。

今の検索エンジンよりも、もっと原始的なタイプだけれども、インバーテッドファイルを作り、キーワードごとの検索ができるようにするもの。

システムは、3つくらいあって、すべて外注で開発したものと、内部で作ったものがあった。内部で作ったものは、ドキュメントが不完全なまま、作りっぱなしの状態で、最初に担当したとき、(データ蓄積部分に)バグがいくつも残っていて、その修正に追われた。

以下、順不同で上司になったことがある人のセクハラ発言。

Yama○氏。

調査官の上の課長ポストまで上り詰めた唯一の人。
今も、ときどき見かけたりする。
出入りのコンピューター会社の営業などをやっているらしい。

Y氏曰く「男性が、事務次官までいけるところは、女性は局長までなれるけど、ここは、男性が課長ポストまでだから、女性は課長補佐ポストまでで終わりなんだよ」

確かにそのとおりになっている。

Tama○氏曰く「昔、上のほうの人に聞いた話なんだけど、女性のお見合いのとき、調査が回ってくることがあるんだそうだけど、そのとき、こう答えるんだって。すばらしい女性だと思うときは、息子の嫁にしたい女性だって答えるそうだ。ちょっとこの人はどうかな、っていうときは、不倫相手(そういう表現じゃなかったような気がする。忘れてしまった)にしたい女性だって答えるそうだ」

Suzu○Sato○氏「産休なんか取るからいけないんだ」
私が、2度目の産休を取った後、出勤したとき、それまで担当していたすべての仕事がなくなっていて、入社一年目の人の仕事(1年に一回起案するだけの仕事)が、割り当てられていたため、文句を言ったときの返事。

Aka○氏「○○さん(私のこと)は、女じゃないでしょ、男でしょ」
私より1年後にはいってきた数学科大学院卒の人。セクハラというより、ま、評価してくれたと思うべきか。

Suzu○Ma○氏「今日の洋服は、透けてないじゃないか」
この男性は、アルバイトの女性をいつのまにか、ゲットして、結婚し、まじめにずっと結婚生活を続けているが、パンチャー室の女性などには、タッチまでしていたらしい。

部屋に女性のヌード写真などがあるのは、当たり前の時代だった。

今なら、セクハラ!!といえるけれども。

Nishi○氏という男性は、上司にはならなかったけれども、身近にいた。

彼は、商品取引に手を出し、出資した金をすべて失おうとしているのに、気がつかない。
競馬でお金をすってしまうと、気持ちがいいそうだ。

行きつけのバーのバーテンに、お金を貸してくれと頼まれて、サラ金から借りて貸してあげたというお人よし。

母に言わせると、夫にするには、いいタイプだそうだが、私は女性っぽい男性が好きなので、毛むくじゃらの男性は、趣味ではない。

身長は、私と同じくらいで、頭の毛は、徐々に体のほうに行ってしまう体質のようだ。

夜、Se○氏と、3人で飲みに行ったとき、
S氏「どう?」

N氏「僕は、してもいいけど」

といわれた。

そのとき、まだ20歳代だったし、そこまで落ちていない!!と云いたかったけど。

N氏は、

「毎日好きになって、毎日振られている」そうだし、丁重にお断りした。

最初の上司I氏

私の職場のセクハラ人物その1(I氏)

1年目の上司I(Iwa○)

自分のことを「僕は狸だよ」という人物。
その意味がわかるようになったのは、だいぶたってからのこと。

右も左もわからない間、とりあえずお世話になりました。

7歳年上で、年次では、5年違いの入社。

つまり、大学に7年間(正確には、6年と2ヶ月)いたらしい。
同じ大学同じ学科の卒業生で、同窓生名簿にのっていて、夫と同級生。
しかし、学生紛争の世代で、ほとんど大学にいかなかったらしい。

このIには、かなり困りました。

北海道に、出張に行くことになり、このIとS、女性の先輩のAが同行しました。
出張といっても、実態は、ご想像にお任せします。

夜、宴会後、このI氏が、しつこく私に、
「君はわがままだ、自分勝手だ、実家を出て、一人暮らしするべきだ」と、せめる。
一応上司だから、相手になっていたら、ホテルのバーが終わりになり、しょうがなく私の部屋で、続きを聞くことに。。。

私は、うんざりしながら、少々付き合ったけれども、
「もう寝るから」とお引取りをいただきました。

その後、私が、Iと結婚するといううわさを立てられました。

どういうタイミングか覚えていませんが。。。

記憶に残っている、最高に気色悪いI氏の言葉。
「妹みたいに思ってるよ、それじゃ不満?」

I氏は、覗き込むような顔をして、にんまりというか、うれしそうな顔というか、なんか笑い顔。本人はにっこり笑っているつもりなのかもしれないけれども、気持ち悪いことこの上なし。
こっちはどう答えればいいのか、よくわからないまま、適当に対応しました。

その後、I氏は、他省庁や他部署に行き、数年後、戻ってきました。そのころ、私は、翻訳をやるようになっていて、このI氏にも、何度か緊急の翻訳などを、頼まれました。
ポストをください、といい続けたのですが、結局、誠意ある対応をしてもらえず、もう、やらない、と宣言しました。
調査官(われわれの最終ポスト)に五年間も居座り、その次に当たる人物は、I氏に忠実な仕事ぶりだったにもかかわらず、無能との評価で、調査官になれずに、退職しましたが、関連会社の社員として、まだ、同じ建物にいるそうですが、ほとんど顔は合わせたことありません。

このI氏は、十年くらい前に退職しましたが、出入りのコンピューター会社の社員として、営業でしょうか、いまだに、うろうろしています。

JICA経由の、外国勤務(東南アジア)に、合計3回くらい行っていると思いますが、この仕事は、聞くところによると、二箇所から給料をもらえるのだそうです。

結婚後の生活

夫は食事代など、あらゆるものを気前よく支払っていた。

そういう人かと思っていたけれども、それは、魚を釣るためだった。

結婚後、もう一つ、夫が言ったこと。

「このマンションを買うために、親に借金をした。ボーナスごとに35万円ずつ返している」
そんな~!!

かなり大金!!

月々、住宅金融公庫の住宅ローン返済や、管理費で、6万円くらい支払っている。

結婚に際して、結婚貸付と普通貸付をしたため、その返済が住宅貸付をあわせて、5万円くらい天引きされていた。

新婚早々、Hさんがマンションに来た。

Hさんは、夫に、
「貯金通帳、渡してなかったの? すぐに渡しなさい」と命令した。

私が、夫の親からの借金返済のことをHさんに話したところ、Hさんは、夫に向かって、説教を始めた。
「あなた、またその話をしたの? それは、返さなくていいという約束だったでしょ?」と問い詰めた。

どうやら、前の結婚では、その返済のため、お金がなくて、生活できないということだったらしい。

Hさんは、私に向かって、
「おそらく、毎月使える金額は、10万ちょっと位だと思いますよ」といった。
確かに、夫の給料から自由に使える分は、その通りの金額だった。

かなりしっかり把握されている。。。
夫は、
「月々10万円渡すつもりだった」と弁解していた。

とりあえず、そういう風に、通帳を預かって、生活が始まった。
夫の小遣いとしては、月3万円を、毎月渡すことになった。

結婚直後

新婚旅行から家に帰ると、彼は実家に帰りましたから、と電話をした。

そして、私には、
「釣った魚にはえさをやらない」と宣言した。

結婚式自体、彼は、やらなくてもいいと言い張ったが、彼は二度目でも、私は初めてだし、私の母も、やらなくてはいけない、といい、Hさんも、やらなくてはいけない、ということでやることになった。

費用は、半分ずつだったが、彼は、職場から借金して払い、婚約指輪は、私の手持ちのもので済ませ、ドレスは、私の妹のを借りた。

仲人さんは、Hさんに言われたとおり、10万円を持っていったところ、受け取れないといって、受け取らなかった。
Hさんに言ったら、では、お歳暮お中元で、その分、払いなさい、といわれた。

彼の実家に、結婚する前には、行ったことがなかった。
私の実家には、3回目のデートの後、結婚することに決めてから、彼は、私の実家に来て、その晩、ずうずうしくも、泊まっていったけれども。

結婚後、夏休みに、母の運転する車で、一緒に、彼の実家へ行った。

彼の実家と私の実家は、車だと一時間くらいだけれども、電車を乗り継ぐと、何時間もかかる。おそらく3時間以上かかるのではないだろうか。

国鉄の電車を乗り換えて、さらに、私鉄に乗り換えなくてはならない。
しかも、国鉄と私鉄の乗り換えには、暑い中を10分歩かなくてはならない。

車で行くのが一番楽というわけだし、母がいてくれるほうが心強いので、一緒に行った。

そのときの彼の母の顔つきは、仲人さんへ挨拶に行ったときとは、別人のようだった。
おもしろくないという感情を、わざとらしく、あらわにしていた。

私は、できるだけおとなしくしていた。

しかし、彼の実家を見てびっくりしたのは、こんなに小さな家を見たことがないということ。

世の中には、もちろんそういう家もたくさんあるのだろうけれども、私が育った地域は、大きな家がたくさんある地域だった。

門を入り、階段を上り、すぐそばにある家の横を通り抜けていくと、彼の実家がある。

後に、統一教会にだまされそうになったとき、除籍謄本というものを取り寄せ、この場所の由来がわかった。

彼のひいおじいさんの代まで、大金持ちだったらしいのだけれども、そのときに、親戚を養子に迎えて、この土地に住まわせている。
そのころから、この住所に住み始めた親戚の土地に、自分で家を建てたのが彼の両親。

その親戚にこの土地を買ってあげたのは、彼の曽祖父だから、彼の両親にも権利があると、彼の妹は(両親がなくなって、誰も住んでいない現在も)思っているらしい。

しかし、彼の曽祖父の死後、祖父は後を追うように死んでいる。彼の父は、12歳くらいで、奉公にいかなくてはならなかったらしい。

昭和恐慌のあたりで破産して、彼の祖父はもしかすると、不幸なことになったのかもしれない。

彼の父は、掛け軸をいくつか持っていたとかで、その一つが東京のマンションにかけてあった。一茶の軸だといっていたが、見てもらったら偽もので、1万円くらいの価値だといわれた。

玄関の戸を開けると、すぐそこが食堂。隣に6畳間があって、その隣には、も一つ3畳の部屋があるらしい。
玄関の奥には、台所と、風呂。
風呂は、薪でたく五右衛門風呂のようなものらしい。

五右衛門風呂なんて、非常にエコな生活だけれども。

いろいろな食事がテーブルの上に並んでいた。
しかし、彼の母の分はなかった。

彼の母は、残っているものを、ささっととって食べた。

年配の人は、そういう風にするのが普通という習慣もあるらしいが。。

ちょっといづらかった。

一時間くらいいただろうか、ずいぶん前のことなのでよく覚えていない。お行儀よくするのも疲れたので、早々に引き上げた。

マンションに帰った次の日の夜、夫が家に帰ってきたとき、ショッキングな出来事が起きた。

「なんで、おふくろにあんな態度したんだ!?」と突然怒り出した。

暴力は振るわなかったけれども、その怒りの剣幕がすごかった。

私はまったく思い当たらない。

できるだけ、おとなしくしていたつもりだった。

これはどういうことか、と、驚きつつ、彼の怒りまくる姿を初めてみて、ショックを受けた。

そのことを、夫と一緒に私の実家に帰ったとき、母に言うと、
夫は瞬時に怒り、座っているテーブルを飛び越えて、私に暴力を振るおうとした。

夫は、自分の母親について、何かあると、ぶっちギレルということを私は学習した。

ごりちゃんとの出会い

ごりちゃんは、時には二枚目に見えることがあります。

しかし、普段は三枚目で、バンカラの部類。
本人も、片岡鶴太郎を見たとき、なんて自分に似てるんだろうと思ったそうです。

結婚式では、水泳部の恒例であるかっぱ踊りを、皆さんで披露してくださいました。
初めて見たのですが、バンカラそのものでした。

ごりちゃんとの出会いは、お見合いです。

うん十年前のことですが。。。

そのころ、統計パッケージを使った仕事をしていました。

長期問題検討委員会という臨時の組織のお手伝いでした。

特別会計へ移行するための予測資料などを作成するため、コンピューターの統計パッケージを使って、プリントアウトするのが私の仕事でした。

大型計算機しかない時代でしたが、統計パッケージだから、データを入れれば、ぱぱっとグラフも数値も出てきます。

多変量解析ソフトのBMDPというパッケージもあって、時系列分析のパッケージと一緒に、いろいろやって遊んでました。

そのとき、長期問題検討委員会には4人のメンバーがいて、もちろん皆さん私より年上ですが、一人すごくかっこいいM氏がいました。
二枚目で、性格もすごくいい人でした。
理想的な人でしたが。。。

病院理事長の娘婿だったので、お金が財布にはざくざくはいってました。

いつも、全員分の食事をおごってくれました。

半分ふざけて、パンチ室の人にもデータ入力を手伝ってもらうので、
「この仕事をやったら、ケーキをみんなにお礼にほしい」、なんていったこともあります。
パンチ室の女性達と、大きなホールケーキをおいしくいただきました。

私の職業歴の中で、もっとも楽しい時期でした。
かなり、ちやほやされて、おだてられてました。
とはいうものの、多変量解析で分析してみようというときには、私よりも後輩の人たちのグループを参加させて、その人たちがやることになりました。私は単なる大型コンピューターのオペレーターのようなものでしたが。。。
そのときの長期問題委員会のトップ二人は、その後最高ポストにまで上り詰めました。

多変量解析自体は、日本ではあまり使われていませんが、その当時から、アメリカなどでは、がんがん使われていたようです。

私の大好きだったM氏は、結婚式の司会もお願いしちゃいましたが、そういうことがとても似合う人でした。その後、アメリカ勤務になり、帰ってきた直後、辞職して、故郷に帰り、大きな病院の理事長になりました。

その当時、統計関係の言葉を調べるのに、母校の数学教室に通いました。

母校の数学教室の図書室は卒業生も借りられました。
数学科の図書室には、長い間勤めているHさんというおばさんがいました。

生き字引のような人で、すべてを取り仕切って、支配していました。

そのおばさんと、いろいろとお話しするようになりました。
私はそのころ、そろそろマンションでも買おうかなと思っていました。
「結婚しても、自分の家は持っていたいから」
といったら、
「自分だけの家なんてだめ、夫婦は一緒に住まなきゃ。出世したかったら、結婚しなきゃだめ。写真を預かって、紹介してあげる」といわれました。

女はいくらでもいる、と、いってました。

私は、もうすぐ30という年齢だったのですが、紹介してくれるという相手は、バツ1で3人の子持ちなどでした。

バツ1でも子持ちではない人がいい、といいました。

最初に紹介しようかしらといわれた話の人は、どういう人か別の人に聞いてみると、かなりかっこいい人だそうで、期待してましたが、あえませんでした。

その後、おばさんとおしゃべりしていて、
「私の職場の男性で、そばにいる人は、ハゲチビお金がない、の3拍子そろっていて・・・」としゃべったとき、おばさんの顔を見たら、顔が引きつっていました。あ、まずいこと言っちゃった、気がついたけども、後の祭り。

おばさんは、女性ですが、かなり髪の毛が薄く、出歩くときは、いつも帽子をかぶっています。ハゲという言葉は禁句でした。

そんな失言をしたため、今の夫を紹介されたのかもしれません。

実家の母は、
「前の奥さんは、さっさと逃げ出して賢かったかもしれないよ」とか、
「義理欠く、礼欠く、恥欠くの三欠く精神だね」とか、
「離婚するならしなさい」
といいました。

しかし、母は支配欲が強く、お嬢様育ちのわがままな性格であり、離婚して、母に頼るのは、ちょっと危険だと思い、思いとどまりました。

夫は、
「離婚すれば、他人だ」といいます。
バツ1なので、そういう考えらしいですが。
夫の前の結婚と離婚も、Hさんが仕切ったそうです。
前の奥さんは、結婚後半年ぐらいで家を出てしまったそうです。家を出てから、半年後くらいに正式に離婚し、その後、半年か、1年くらいたった時、私とお見合いしたようです。

新婚旅行の時、夫がベッドでグーガー昼寝をしているのを、そばで見ていたら、びっくり仰天して、怯えていました。
前の奥さんと勘違いしたのでしょうか?

きっとすごい結婚生活だったのでしょう。

かなり強引に、仲人言葉を吹き込まれて、会いましたが。。。

2回目のデートと3回目のデートの間に、職場の親睦旅行があり、ひどいセクハラをされました。
あまり思い出したくないので省略。

それで、もうこの相手に決めてしまおう、結婚しようと、決心しました。

夫のほうは、
「君が学生のときに見かけたことがある。そのときから好きだった、見合い恋愛だね」
と調子のいいことを言っていました。

毎日電話をかけてきて、
「今、江ノ島にいるんですけど」
なんて、いう人なので、ほんとかどうかわかりません。

「見かけたことは本当だよ」
といいますが。。。

私の所属するサークルと、彼の所属するサークル、そして、彼が入り浸っていたプールが同じ建物にあり、数学科の建物のすぐそばでした。

だから、すれ違っていてもおかしくはないけれども。

「フランスから帰ってきたとき、死にそうだったんだよ、そのとき、君を見て・・・」みたいなせりふも言ったりして。。。

結婚するまでには、いろいろありました。

それは省略。。。

仲人のHさんは、すべてについて指図しました。

「結婚式の仲人さんは○先生、お礼はX○万円、恩師のF先生に挨拶に行きなさい、A子さん(私のこと)のお父様のところに会いに行きなさい、結婚した後、私(Hさんのこと)へのお礼は20万円でいいわよ。。」

後で夫に聞いたところ、このHさんは、くっつけるところから、離すところまで、つまり、結婚離婚すべて、面倒を見るそうです。

夫とHさんは20年来の付き合いで、夫は話を聞いてあげる役目だそうです。
結婚式の時、Hさんは、
「私は、大学での親のような役割です」なんて、話をしていました。
かなり、夫とは親しいようで、結婚してからも、ずっと夫と長電話しています。
(今も時々長電話しています、通話記録でわかります)

Hさんの夫は、防衛大学の数学の先生でしたが、私と夫が結婚するちょっと前に、自殺されました。

その自殺前夜、夫のマンションに寄ったそうです。
そこで、そのとき、
「何を話したか、言いなさいよ」
と、しつこくHさんは聞き出そうとするそうですが、夫は教えてあげないそうです。
そういうところは、なぜか口がかたくて、びっくり。。

そのHさんについては、結婚後も、お世話になりました。
夫のことについて時々、相談したり、間に立ってもらったりしました。
「私は女性の味方よ」といっていて、私は、私の味方だと思っていたのですが。。。

今住んでいるマンションへ引っ越した直後、遊びに来ていただいて、いろいろ夫のことをいさめてもらおうとしたときのこと。。。
突然、
「うちの息子だって、こんな立派なマンションに住んでないわよ」と怒り出したのです。今住んでいるマンションは、住宅債券を積み立てて、倍率2倍であたったものでした。
住宅債券がなく、市内在住でもない人は、100倍の倍率の人気でした。
広さは、4LDKで、90平米超。
今となっては大したことありませんが、市内の一戸建てに住んでいる母も、
「車をおかせて」と頼むような駅から近い便利なマンションでした。

Hさんは、夜遅くなると、台所の洗い物を始めました。
「汚い台所のままで寝るのは嫌なの」
結局、Hさんは、居間にお泊りになりました。

Hさんは、実家からのお金で女中さんを雇って、仕事を続けていたそうです。

私は女中さんなんていませんし、実家もそんなお金を出すような金持ちでもありません。完璧に一人で家事をこなせませんし、夫が家にいることが多いので、夫にも家事を分担してもらおうと思っていました。

私の味方だと思っていたHさんが、突然本性を現したという感じ。
大学の先生って、昔はもっと地位が高かったようですが(Hさんの話を聞くと)、私は、大学の先生は、暇だから家事が手伝ってもらえる、なんて程度の認識でした。

夫の問題で、興信所に相談しようとして、いろいろ話したとき、このHさんのことを話しました。
「それはプロですね、本当はいけないんですけど。免許がいるんですよ、結婚紹介は」

Hさんのことをある教授はうらんでいるそうです。その教授のお嬢さんの結婚をHさんが世話したのですが、無理やり離婚させたそうです。
夫が家計にお金を入れないから、という理由で、別れさせたそうですが、
教授のお嬢さんは別れたくなくて、ずっとまだ未練を持っているそうです。

お葬式などでは、このHさんが取り仕切るそうです。

結婚を成立させて、20万円の報酬というのは、その当時の初任給二か月分以上でしたから、かなりいいアルバイトだと思います。

ごりちゃんの動物騒動

ごりちゃんの動物騒動

ごりちゃんは、動物が大好き。
しかし、今のマンションは、動物禁止。

子供が小さいころ、子供の儀機嫌取りもあって、いろいろな動物を買ってきた。

ひよこ、アヒルの赤ちゃん、うさぎ、猫、小鳥、熱帯魚、リス。。。

ざっと思い出したものは、これくらい。

それぞれ、ご近所迷惑。

ウサギは逃げて、隣の家のベランダにある花を食べてしまったという苦情がきた。

猫は、子猫で、すぐに下痢してしまったので返した。

小鳥は何羽もいたけれども、ある日、非常用設備の点検かなにかで、管理人さんが入ってきたとき、気がついたら、鳥かごの扉が開いていて、すべて逃げていた。

熱帯魚や亀はもちろん、OK。

リスは、一晩で死んでしまった。

アヒルは、大きくなってしまったので、川へ流しに行った。

一番厄介だったのが、ひよこ。

あっというまに鶏になっていた。

朝早く、こけこっこーと盛大に鳴く。

我が家は5階だけれども、地上に降りて逃げたことがあるらしい。

ペット禁止なのに、こんなことあっていいものだろうか。

夫は、わざわざ探しにいって、連れ戻したらしい。

鶏のえさが、何週間もベランダの一角にたまって、すごいにおい。

鶏を食べてしまえばいいというけれども、無理。
誰も、処分できず。

鶏を、近くの実家に預かってもらって、ホースで水をかけてなんとか、掃除した。

実家でも、鶏をかごから出して、散歩させると、洗濯物干しの上に飛び乗って困るというので、知り合いの獣医の資格を持っている人に、ちょこっとした手土産を持参し、あげてしまった。

ごりちゃんの学生時代のこと

夫の学生時代、数学科は、民青が多かったそうだ。
秋葉広島市長は、先輩だそうだ。

「今の秋葉広島市長は、民青だよ、そういう顔をしてるじゃないか。駒場寮はいろいろなのに別れていて、歴研とか、民青とか、いろいろいたけれど、汚いし、汗臭いし、見に行ったけど、入れてくれなかった。話してみて、サラリーマン志向の人は、入れない。だけど、結局機動隊が入ったでしょ。今は壊されちゃったけど」

駒場の間は自宅から、二時間かけて通っていたそうだ。
本郷に移ってから、運動部の部室に寝泊りするようになったらしい。
アパートを借りたのは、修士になってからだそうだ。

運動部の部室にいたころの話を、友人が、結婚式でばらしてしまった。みんなでやったことだから、うちの夫だけが悪いわけではないのだけれども。

夜中に、生協の冷蔵庫のダイヤル錠の鍵をあけて、ハムを盗み、焼いて食べたとか。

学生のやんちゃとも思えば思えないこともないけれども、母は、すごく恥ずかしかったと言っていた。

このせいだろうか、夫は、夜中に料理をして食べる習慣がある。

二人目の子供が生まれたころ、車を買った。

休日に、車でスーパーにいき、いろいろ買いだめしておく。
近所に、落第横丁というのがあって、そこには、八百屋さんと肉屋さんがあったが、魚屋さんはなかった。

だから、魚を食べたいときは、スーパーにいくか、近くの魚屋さんから配達してもらうしかなかった。

ところが、夫は、夜中に料理を始める。
お酒を飲むと、料理がしたくなるらしい。

結婚して最初に夫が、夜中に、料理を始めたとき、びっくりした。

たしか、ラーメンスープにコリアンダーというスパイスをいれ、そばを入れるというような料理だった。

私が眠るころ、私は、翌朝仕事だから、夜眠らないと困る。
夫は、大学で、しかも数学だから、毎朝、毎日でなくてもいい。
それで、昼夜逆転することもあり、夜中に、ふんふん楽しそうに、料理を始めて、冷蔵庫にあるものを、すべて使ってしまう。
とても困った。

ねぎ一本ないと困る、ということもあるわけだし。

たとえば、私が作った鍋料理がおいしいと、かってに増量する。
おでんなども増量されてしまう。
しかし、夫の作ったものは、まずくて食べられない。

寸胴なべなどの大きななべいっぱいに、わけのわからないものを作って、いつまでも、なべを占領してしまう。
なべに入れた時点で、眠くなって寝たりしてしまう。

10年位前は、大なべ一杯分が腐り、可燃ごみになるわけで、捨てるのに本当に困った。
夫にごみ出しを頼んでいたが、エレベーターにごみの汁がたれているという苦情があって、おそらくうちだろうと目をつけられて困った。
可燃ごみを出すとき、大量の生ごみは重たくて、水分を含んでいる。

可燃ごみの日は、週2回だけ。
それまでは、ベランダに保存するけれども、ためてしまうこともある。

上の階の人が、覗き込んでゴミ袋の数を数えたそうだ。

年末年始も、大変だった。

東京にいたころは、ごみ用の部屋があって、いつでもごみだしできたが、今の自宅は、ごみの日の朝、指定の場所に出さなくてはならない。

だから、さあ、今日は出すぞというとき、誰もいないのを見計らって、二人で、早朝に大急ぎで出したりした。

自分の料理を食べれば?といっても、私が作ると、それを食べるわけだから、どんどん残るわけで。
日常生活まで、糖尿病っぽい生活。

昼間から、大きなゴキブリが、台所に出没している我が家だった。

今は、買いだめしないようにしているし、大きななべは、しまっているが、それでもやめない。

冷蔵庫には、小さななべやボウルが4つくらい入っていたりする。
机の下で腐っているよりはましだけれども。

今、一番困るのは、小さななべで、てんぷらをして、油がガスレンジにこぼれて、その後燃えてしまうこと。

3つ口のうちの一つのガスレンジの着火部分が、燃え尽きて、火がつかなくなってしまった。

せっかく、西ドイツ製のガラストップの、すごくすてきなガスレンジにしたのに、本当に困る。

このガスレンジは、掃除が楽で、熱効率もよくすごく便利。
ずっといつまでも使えるはずだったのに。

チャッカマンなどでつければ、つくけれども、まったく使えなくなったらとても困る。

白旗の少女を見て泣いていたごりちゃん

先週、私は、旅行に出かけた。
5泊くらいするので、その間、夫の食事をどうするかが問題だった。

もちろん、多額の現金を渡すのは、まずい。
ある事情で、金銭的に余裕がない。
(そのある事情は、もちろん、夫が原因だったのだが)

1000円だけ渡した。
家には玄米がたくさんあるので、玄米を食べていれば、大丈夫なはず。
完全栄養食品だし、ビタミンB群が豊富なので、糖尿病の人は、玄米だけでもいいはずじゃないかと思う。
戦争中は、糖尿病の人がほとんどいなかったそうだ。

それで、ちょっとかわいそうだけれども、1000円だけ渡した。
私は、グルメのブログを書くために、あちこち食べ歩きをするわけで、その記事を書いているときに夫に見られたりすると大変。
また、家に帰ると、今日は何を食べた?と、聞いてくる。
しょうがないから、本当のことを言ったりするけれども、そうすると、ずっと、
「いいよね、1480円のカツ丼食べて」と毎日言う。
最高金額のものをいつまでも覚えている。

しかし、昔、夫が、持っていたマンションを最高値(7880万円)で売って、大金を手に入れたとき、急に金持ちになった気分で、毎日飲み歩いていたころ、そんな金額ではすまない状態だった。

前夜の記憶もなくなるくらい飲んだりしていたし、1000万円くらい使途不明金がある。
その結果、持っていたお金がなくなり、大借金を作ってしまうのだが、その話はまた別の機会にということで、とりあえず、夫の食生活は、糖尿病とアルコール依存症の治療のために、貧しいほうがいいのだ。

それは、カロリーオーバーじゃないの、と私が言うと、お前は医者か、と反発する夫。
お互いに、家庭内抵抗勢力だから。。。

そして、私が、家に帰ったとき、夫は、白旗の少女を見ながら、泣いていた。

顔は見えなかったが、後姿だけで、泣いていると思った私は、
「泣いてるんでしょ?」と聞いた。
夫は、
「食べるものがなくて、おなかがすいていたので、白旗の少女の中で、おなかがすいたというシーンがすごく悲しかったんだよ」とまあ、正直なお返事。

妹が近くに住んでいて、農家だし、妹の旦那が退職したばかりで、時々お小遣いをあげているらしく、意外にお金を持っているようでもあったので、それほど、おなかがすくとは思わなかったのだけれども。。

ごりちゃんの妹は、昔、一緒に住んでいたとき、ごりちゃんが、食費としてかなりの大金をあげていたそうだ。

それで、今は、ごりちゃんが妹からお金をもらえるらしい。
「妹は俺に借りがあるんだよ」
というが、最初に、大金を渡し始めたとき、酒量が増えて、私は、ごりちゃんの妹に、ごりちゃんを殺す気ですか、と、電話した。

ごりちゃんの病気の事情をはじめて知ったらしく、びっくりしていたけれども。

最近は、ごりちゃんの妹は、少しずつ渡しているらしい。
ごりちゃんの妹は、車を持っていて、我が家の近くでアルバイトしているらしい。
どこでアルバイトしているか、私には、言わないけれども、時々、妹情報をチラッと話す。